追記

しかし「悩んでる性格を活かせる環境」ってどんなものか?
なかなかすぐ分かるものじゃないし、活かせる環境を探す過程で、自分の悩んでる性格を受け止めなければならない気もするので、やっぱり、短絡的に「変えるのはむずいなしんどいな」「環境変えちゃおう!」っていうのも、結果的には環境選びにそれなりに複雑な過程を要するからいい気もしてきました。
おやすみなさい。

昨日、夢と現実の狭間で考えていたこと

こんにちは。「ありのままを」です。
早速、昨日日記をスッポカしました。
そしてもうすでに昨日の記憶が曖昧です。
日記をつけるには鮮度が大事ですね。
その日そのとき感じたことをありのままに・・
頑張りたいです。
そういうわけで、記憶はすでにあやふやなんですが、確かこういうことを考えていた、というのを書き残しておこうと思います。
インスタグラムでいわゆるインフルエンサーというのでしょうか、フォロー数は多分万単位(←確認してない汗)で投稿は毎回1000越えのいいねが付くようなひと。私もその人の考えは共感することが多く、よくいいね♡押してるのですが、昨日(か一昨日)の投稿でちょっとひっかかるものがありました。
どんなものかというと、
「自分の性格を変えようと悩んでいる人が結構いるが、特に大人は性格を変えるのは困難である。だから性格を変えるのではなく、その性格を活かせるように環境変えたほうがいい」
・・・
今、打っていて、うん、その通りだな、とおもいました。
昨日私が抱えていたひっかかりはなんだったんだろう。やはりアウトプットは鮮度が大事ですね。
ただ、今ちょっと考えて無理やり出てきたのが、性格を変えるのが困難だ→(だから)環境を変えよう
の、→のところに、何か足りないものを感じたんだと思います。
性格を悩んでる人がまず「悩んでいる」ということを自分で受け止めて、いろいろ試行錯誤したけど「変えるのは困難だ」と受け止めて、「ではどうしたらいいか?」というのを考えて、「環境を変える」というひとつの選択肢を選ぶ、という過程が大切なんじゃないかと。
回りくどくて歯がゆいのだけど、要するに「性格を変えるのは困難だ」という他者からの断定的な考えを受け入れて、「性格変えるより環境変えた方がいいよ」という解決策を受け入れるというのが、何となく思考停止のような気がするのだ。(はい、ひねくれ者です。)
「性格変えたい」と悩む人は、「あぁ自分は自分の性格が受け入れられないんだな、変えたいんだな」というのをまず、受け止める。
そしてその上で「どうして受け入れられないんだろう」「どうやったら受け入れられるんだろう」「どうしたら変えられるんだろう」というのを考える。
そして自分なりにそのとき持ち合わせている知見で「こういう理由で受け入れられないじゃないか」とか、「こうしたら受け入れられるかな」とか、「こうしたら変わるかな」とか、試行錯誤が始まる。
その結果「やっぱり受け入れられないな」「変えられないな」というのを受け止める。
「じゃぁどうしようか?」と考える。
そこで始めて、「性格変えないで、心地よく生きられるようになるには?」
「悩んでる性格を活かせる環境を探してみよう」というのがひとつの選択肢として浮上する。
そして、自分で選択する。
最適解に最速で辿り着くことよりも、最適解を選択するまでのこういう過程が、大事なんじゃないか。
自分の感じたことをしっかり受け止めて、ではどうする?と頭で考えて、答えを出す。選ぶ。そうして辿り着いた答えは、結果がどうあろうと、甘んじて受け入れられるんじゃないかと思う。
でも自分で受け止めて考える過程をすっとばして、「性格を変えるのは困難」だから「活かせる環境に変えよう」ってやってみて、思うような結果にならなかったら、「ちがうじゃん!やっぱりダメじゃん!」ってそこでまた思考停止になる気がするんです。
「性格を変えるのは困難かもしれないから環境を変える方法もあるよ、自分で考えてみて」みたいな選択肢の提示なら参考にどんどん取り入れて思考の材料にしたらいいと思う。
めっちゃ長々書いたけど、いわゆるインフルエンサーってそういう断定的なものの言い方が受けている面もあって、仕方ないのかもしれないけど、今回は「思考停止はあかん」「自ら行動しよう」ということを常日頃発信している方だったので、たぶん余計に引っかかった気がします。
いや、その方の言ってること、全然間違ってないんですけどね。性格変えるより、環境変えた方がいいです。でもそれは自分がいろいろ受け止めて考えた末に選択した結果であるから意味がある気がします。
なんだかんだ書きましたが、藤原ひろのぶさん、応援してます。別にアンチとかファンとかじゃないです。「買い物は投票だ」に共感してます。
#藤原ひろのぶ
#アースおじさん
#買い物は投票

追記

飽きっぽいというか、発信、というのがあまり好きではないのかもしれない。
自分のために書いているから世に言う「発信」とは違うんだけど、そうはいっても、言わなくていいことを公開しなくていいことを書いて「発信」している。別に誰に向けてではない。
何言いたいんだか分からなくなってきた。
眠いんだろう。
そう、私はいわゆる「発信」が苦手だ。書くのもだが、読む方がもっと苦手だ。
だいたいみんな(おいおい主語がデカいぞ)都合の良いことばかり発信してる。よく見せようとしたり、自分はこんなすごい考えに至りましたどーん!みたいな(おいおい一般化し過ぎだぞ)
発信と内実が伴ってるパターンもあるけど、なんだかそうではない例ばかり目に付く。
だからSNSはあまりみないようにしてる。
メンタルケアのためにも。
特にFacebookって、学歴職歴マウントの温床な気がする。純粋に(なにを持って純粋なのか・・)「発信」している人って少ないよな。
まあ、そんなわけで、飽きっぽい以前に苦手意識
があります。特に読む方に。
そして、読むのが好きではないので、なんて書いたら良いのか悩みます。そういうときは何のために始めたか初心にもどって、続けられるよう頑張ります。
どうでもいいですね。
そう、どうでもいいことを発信する場です。

日記が続く気がしない

昨日開設したばかりなのにもうやる気がなくなりつつある・・
自分飽きっぽさに改めて気づく、という気づきを得た。日記始めてよかったな。
まぁ、それが私のありのまま、ということで受け止めつつ、もうやる気が半減しているが自分を知るためにがんばって書く。
とはいえ、私は今月から自分のメンタルケアの為に夜更かしはしないようにしている。
大体いつも子どもたちと九時に寝る。
五時に起きる。
八時間以上寝ている計算だが、朝は辛い。
しかし夜10時過ぎに寝たときと比べて日中のバイタリティ?が各段に増す、気がする。
やはり寝た方が動けるし、頭もよく回る気がするし、だから気分も落ち込みにくい。
メンタルの不調は自分の意志ではなかなかケアできないので、生活習慣から見直すことにした。
裏を返せば、そのくらいテコ入れしないとマズい状況に陥っていた。
それは徐々に書いていこうと思う。
とにかく、まず睡眠。
そして午前中の光を浴びる。これを意識している。
そう、テストステロンさんの本を読んで参考にしている。
彼の主張は、すべては筋トレで解決するというものだが、私は学生時代体脂肪率13%の隠れマッチョだったが筋肉が多ければ多いほど良いということではないのは、自分の体感として感じている。
しかし、筋肉の為に生活習慣を変えるというとは、とても効果がある。
なぜなら、私のような自分に否定的で、自分の体に優しくするどころか、自暴自棄だったり自傷行為としての暴飲暴食だったりがやめられない人間にとって、「自分のため」ではなく「筋肉のため」というキーワードは味噌である。
間違えた。ミソである。
「筋肉のため」といってもそれは自分の筋肉なのだが、自分のため、というより何だか他人ごとのような感覚がある。もっと昇華していけば「推し」のような存在になりうる感じ。
自分のため、ではないから頑張れる。やってあげたくなる。
それが巡って自分に良い作用をもたらす。
そんな感じだ。
だから今日も筋肉のために、早く休む。といってももう10じだ。
おやすみ。

読みたいことを、書けていない。書きたいことを、書いている。

さっき、今日の出来事を思い出しながらツラツラ書いた。もっと頭使って取捨選択(何を書いて何を書かないか)したら良かったんだろうけど、よく見せる為のものじゃないし、そういう編集的なことはあまりしなかった。そしたら自分でも読みたくない日記になった。まぁ仕方ないよな。
読みたいことを、書けばいい。という田中泰延さんの本とは真逆の日記だけど。
誰かによんでもらうことが目的ではないから、これでいいのだ。
書きたいことを、書いてみるのだ。

ただの日記 三度の飯より好きなこと見つけたい

今朝は遅くまで布団の中に入ってた。
子どもたちは多分五時台に起きていたが、昨晩、私と夫が準備したサンタクロースからのプレゼントに夢中になってくれてたので、私たち夫婦は7時過ぎまで布団の中で休めた。昨日10時過ぎまで起きていたせいか、寝る前に久しぶりに甘いもの(手作り米粉ロールケーキ堂島風と草餅とコーヒー)を食べたせいか、朝がつらかった。朝がつらいのはいつものことだけど、なんていうか、精神的に?「あぁ起きたくない・・」って思ったのは久しぶりだった。まぁいつも辛くてもそう思う余裕すらないのかもしれない。
通常稼働の場合は5時台に起きるからなぁ。
長くなってしまったが、とにかく今朝は(も)起きるのがつらかった。
そして起きたら「おなかすいたー」と叫んでる子どもらに玄米梅オニギリをしこたま握って、さっとワカメの味噌汁(ダシはガーっと粉、味噌は去年の手前味噌)を作って出した。
そして皆が食べている間に昨日蒸したサツマイモの残りを潰して米粉蒸しパン(サツマイモ、豆乳、塩、レモン汁、米粉重曹)を作った。朝ご飯の後のデザート?おやつ。
休日は午前中におやつを作って食べることが多いなぁ。こういう風にゆったり午前中を過ごすのも大人としては悪くない(むしろ1日ずっとゆったり過ごしたい)のだが、子どもという生き物は、家で過ごしているとフラストレーションが溜まるらしい。
全く良いことはないので、いつも頑張って弁当作ってなるべく午前中(早ければ9時台遅ければ11時過ぎ)に家を出て午前中の光を浴びさせて、遊んでもらう。
公園だったり里山だったり、主に自転車で行く。親としては公園より自然の中で遊んでほしいが自転車で20分ほど漕ぐのがネックなのか、長子は今日あまり乗り気ではなく、近所の公園を熱望したので仕方なく折れて近くの公園に行ってもらった(夫に)。心の中では「お母さん公園で好きじゃない!」って思ったけどもちろん言わなかった。でも悟られたかな、公園じゃなくて里山行こうよ~って誘ったら長子が「もういい、公園もどこも行かないっ」ってふてくされて怒ってた。こういう態度、私は大嫌いだ。しかしそれも隠す。「そうか~」とだけ言って、深追いはやめた。
そしてしばらくしてから「じゃあ公園いこうか~帰りに紙コップ買うの忘れないようにしなきゃね!帰ってきたらスライムつくるんだもんね!」とスライムに気をそらせながら伝えた。
案の定不機嫌だった長子の様子ががらりと変わり行く気に。こんな風に気をそらしていいものか、疑問が残る(私の中だけに)。
そして夫に子どもたちをつれて公園に行ってもらっている間、私は年賀状の作成に取りかかり、お昼にお弁当をもって公園に行った。
外はめっちゃ寒かった。
日が当たれば暖かいが、空気は寒かった。
次女が公園の砂が暖かいことに気づき、皆で砂に手を埋めた。シュールな光景だった。しかし太陽の熱を受けた砂は冷えた手にはとても暖かく感じた。
帰ってきて、子どもたちはスライム作り。私はおやつ作り。おやつは米粉パンの残りでフレンチトースト(卵、豆乳、メープルシロップ)余った液で大人用に冷凍してあったフランスパンでフレンチトースト。作りながら、水木ムチを仕込み、夕飯のキャベツのラペ?と豚カツの豚肉と味噌汁とダシ(昆布と煮干し)を仕込み、明日用の鳥ハムを仕込んだ。
朝からずっっと何か作って食べて片付けての繰り返し。それで1日があっという間に終わっていく。あんまり三食にこだわってはいけない、できたら1日二食にしたい・・なんて思うが、無理だ。
みんな(私も)三度の飯より好きなことを見つけたい。見つけてもらいたい。ご飯の回数を減らしたい。
今日は(も)ずっと食べ物のことを考えていた気がする。

追記

さっき、他者からの賞賛を求めたり自分をよく見せようと誇張したものは書かないようにするって書いたけど、それは自分のありのままを受け止め切れてないよな、と思ったので追記。
誇張しようが、(自分を)卑下しようが、それがそのとき(ブログを書いたとき)の自分なので、ちゃんと受け止めよう。
何かいてもオッケー、何でもあり
ありのままの自分日記バーリ・トゥード。
今夜ゴングが鳴りました。
(「言語学バーリ・トゥード」川添愛著もじってます。言語学バーリ・トゥード、めっちゃおもしろかったです。「前提」の怖さを実感するこの頃です。)